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袴田冤罪事件「まだまだ続く厳しい道のり」



http://president.jp/articles/-/14263

2015年1月7日(水)

袴田冤罪事件「まだまだ続く厳しい道のり」
NEWS FILE

PRESIDENT 2015年1月12日号
著者
青柳雄介=文・撮影

巖さんの病状に明るい兆し
冤罪事件の元被告 袴田 巖 
1936年、静岡県浜松市生まれ。元プロボクサー。30歳のとき勤務先の専務宅が放火、一家4人が惨殺された事件で逮捕。80年に死刑が確定したが、14年3月に再審開始が決まり、47年7カ月ぶりに釈放された。(写真左は姉・秀子さん)

2014年3月に再審が認められ、約48年ぶりに釈放された無実の死刑囚・袴田巖さん(78歳)。自由を奪われた状態が続き、精神が不安定になる拘禁症や糖尿病などの影響で3カ月間入院。7月初めに退院し、今は姉の秀子さん(81歳)の自宅で暮らしている。だが、ほとんど外出することはなかった。

8月末には自宅で倒れ緊急入院、周囲を慌てさせた。高熱から肺炎を起こし、さらに胆石の除去手術と心臓カテーテル手術を受け、1カ月の入院を余儀なくされた。しかし順調に回復、退院後はそれまでとは見違えるように意欲的になった。秀子さんが言う。

「毎日のように買い物や散歩に出かけています。集会にも進んで参加するようになり、行動範囲が広がりました。きっと退院後、体調がとてもよくなったのでしょう。随分と話すようにもなりました。10月には2泊3日で東京の集会に出席し、上野動物園や東京タワーの見学もしました」

旧友との再会もあった。1963(昭和38)年、埼玉県狭山市で女子高生が殺害された狭山事件で無期懲役とされ服役、仮釈放後も冤罪を強く訴えている石川一雄さん(75歳)である。石川さんは一審で死刑の判決を受け東京拘置所に幽閉されたが、3つ隣の房にいたのが巖さんだった。10月26日、石川さんが自宅を訪ねると、「石川さんかい、いらっしゃい」と、巖さんは玄関先で出迎えた。

「拘置所の運動場などでよく一緒になったのですが、お互いに無実の死刑囚ということで励まし合ったものです。私が二審で無期懲役となるまで、6年間交流が続きました。当時、塀の外でこうしてイワちゃん(巖さん)と会えるとは思っていなかったので、感無量です」(石川さん)

11月15日には、東京で行われた日弁連主催のシンポジウム「死刑廃止を考える日」に参加した。渋谷のスクランブル交差点ではあまりの人の多さに目を丸くした袴田さんだが、壇上からこう強い口調で訴えた。

「国家が人を殺す死刑制度は、何があっても許されることではない。あってはならないことだ。私はこれからも正しい道を生き、闘っていきたい」

常に処刑の恐怖と隣り合わせだった怒りの言葉に、参加者は深く考えさせられたようだった。


これまで東京や名古屋などへ出かけることはあったが、11月29日には島根県松江市で開かれたシンポジウム「死刑を考える日――袴田再審事件を通して――」(島根県弁護士会主催)に招かれた。約50年ぶりとなる飛行機に羽田空港から搭乗した袴田さんは、黒のスーツに蝶ネクタイ姿。

「島根県まで行くんだから蝶ネクタイくらい締めなければと思い、前日にデパートで買ったけど、黒ずくめになってしまった。飛行機に乗れるということは、自由な体で生きられるということなんだな。健康そのもので元気いっぱいで頑張っております」(袴田さん)

まだ拘禁症の影響が残り意思の疎通が図れない部分もあるが、150人の聴衆を前にした袴田さんは「私が袴田巖でございます」と、しっかりとあいさつをした。松江城の天守閣から街並みを見下ろすと、「これから街がどう発展していくのか。幸せな人間社会が保障されなければいけない。人間がまじめにやれば、文明が開けていく。今後どうなっていくのかが問題だ」と持論を展開した袴田さん。翌日は出雲大社を訪れ、大きな注連縄の下で拍手を打ち、頭を垂れていた。

再審開始決定は出たが、静岡地検が決定を不服として即時抗告をしているため再審開始のめどは立っていない。

「まだ厳しい道のりですが、私たちは全身全霊で闘い抜いていきます」

1日も早い無罪判決を待ち望む姉・秀子さんは、こう決意を語った。



途中で過ちに気付いても引き返せないのはなぜだろう。静岡地検は再審を不服としているようだが、自分が正しいと思うなら正しさを示せばいいだろうに、そのことすら反対するのはむしろ自分たちは正しくなかったということを示しているのではないか。地検の判断に犯罪性があったのではないかとまで疑ってしまう。正義を貫く姿勢は捨てて安っぽい組織防衛に走っているのだろうか?。むしろ逆効果だと思う。

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